月も星も、届かないのに

 スタンシアラの月は、とても綺麗だった。水面にきらきらと丸い影が浮かんでいる。昨日初めて訪れたとき、こんな美しい町があるなんて、とかなり驚かされたものだ。
 だが。しかし。
 いったい、どうなってるんだ、この町は!
 最初の印象を見事に塗りつぶされるくらい、最悪な出来事の連続だ。結果的に天空の兜が手に入ったからいいようなものの、パノンもスタンシアラ国王もあんまりな食わせ物ではないか。傍目には美談に見える、けれど私には、釈然としない思いがしこりのように残っている。二人とも素晴らしい、いや、二人ともカッコつけやがって。神官としてはこの上なく言葉は悪いけれど、そんな思いが交錯する。
 それに、いくら寝付けないからと言っても、酒場になんか行くんじゃなかった。世界に絶望して大酒呑んだあげく、酔っぱらってクダを巻く神父。胸糞悪いにもほどがある。とすると、教会は無人のはず、どうなっているのだろう……と心配になって覗いてみたら、あろうことか真っ赤なスライムが次々に人を癒しているではないか。いや、やっていることは正しいのだけれども。
 まったくこの町は。こんなに美しいのに、いろいろとありえなさすぎる。
「険しい顔しちゃって。何ふらふら歩いてんのよ?」
 驚いて振り向くと、無人の船着き場に腰掛けたマーニャが、足を水に浸してぱちゃぱちゃさせていた。
「あなたも、眠れなくて出てきたクチ?」
「まあ、そんなところです」
「ここで靴を脱いで、足を浸してみ?冷たくて気持ちいいわよ」
 マーニャの手招きに、断る理由もなかろうと思い、彼女の隣に腰を下ろした。素直に言われた通りにすると、これはなるほどその通りだった。とりあえず礼を言うと、彼女は素っ気なく頭を振った。
「ちょっとはいいこともなくちゃね。言っちゃあ何だけど、この町、最悪じゃない?綺麗だけどさ」
「あなたもそう思います?」
 マーニャはちょっと驚いたようだったが、すぐに私の態度を理解したようだった。
「もしかして、酒場に行った?」
「行きました行きました。ちょっと腹ごしらえでもと思いましたが、あれじゃ食欲も失せますよ」
「そうね。モンバーバラだったら、何より楽しく呑むのが礼儀だってのに」
 私が強くうなずくと、マーニャも深々とため息をついた。
「それにね。なんか、自信なくなっちゃった」
「珍しいですね。あなたが弱音を吐くなんて」
「だってさ、ちょっとイラッとくるんだ」
 不意に、爪先で水しぶきを跳ね上げる。褐色の足に、染めた爪が綺麗だった。
「踊り子の町だったモンバーバラをお笑いで席巻しといて、スタンシアラ王の前でさて何を見せてくれるのかと思ったら、あれよ。そりゃ『実に良い話だ、感動した!』ってなるだろうけど。なんか納得いかないのよね」
「全くです、その通りです!」
「あら、そうなの?」
 勢い込めて同意したが、気のない返事だった。ああ、たぶん本題はこのことではないのだろうなと思い、注意深く彼女を観察した。
 ほんの少しの憂いを睫毛の上にのせて、すっと目を細めている。指の付け根を唇に当てて、そうしている間も彼女は文句なく美しかった。一流の踊り子としてか、どんな仕草もこのうえなく優美に見える。惜しむらくは、あまりに機嫌が悪いようだ。
「もっと納得いかないことがあるようですね」
「納得いかない、というか……」
 彼女らしくなく、語尾を濁した。何を言うのかな、と気になる。
「あの、天空の……兜。どう思った?」
「天空の兜、ですか」
 いささか面食らった。
「綺麗なものでしたね。凛とした、なんとも言えない気品があって。これが“天空”というものなのかと。残りの武具にも興味が尽きないところですね」
「そうなのよ」
 マーニャは忌々しげに舌打ちした。
「勇者君しか装備できない、あの兜。嫌でも思い知らされるわ。いくら私たちが“導かれし者”であっても、天空人には手が届きませんよって言わんばかり。私と彼は、住む世界が最初っから違うの。残りのも、見たいと言えば見たいし必要なのもわかるけど、心のどこかでは見つからなければ良いのにとか思っちゃう」
 絶句。相づちも打てなかった。
「あなたにもわかるんじゃないの。自分がどうやってあがいてもあがいても、目の前にあるのに手が届かないって悔しさが」
 悔しさとは違う。あきらめだ。最初にそんなことを思ってしまった。言葉も返せずにうつむいてしまったが、マーニャにとってはそれが充分私の答えとして映ったようだった。そしてそれは、あながち間違ってもいなかった。と言うより、おおむね正しい。
「ごめんね、変なこと言って」
「……いいえ」
 とりあえずそう答えるのがやっとだった。マーニャは取り繕うような笑みを浮かべて、爪先で私のすねを軽く蹴った。水しぶきが飛び、月の光をきらりと跳ね返す。私はため息をつきながら、小さく言った。
「手が届かないなら届かないなりに、最初から届きそうもなかったら、こんなに悩むことは無かったのでしょうにね」
「まったくね」
 しばらく黙っていたが、不意にマーニャがくすりと笑った。
「こんなことなら、クリフトを好きになっていれば良かった」
 いきなりで面食らった。でも私の答えはやっぱり、ひとつしかない。
「だとしても、あなたの片思いであることは変わりませんよ」
「あら、言うわね」
 マーニャはにっこりと笑って、そして不意に寂しそうな顔に戻った。
「それでもね。ライバルは死んだ人間より生きた人間でいてくれた方がまだ可能性があるもの」
「……私があなたを好きになっていたら、どうなっていたでしょうね」
 変なことを言ってしまった。すこしうろたえる私に気づいてか気づかずか、マーニャは私の向こうずねを爪先でひょいと蹴飛ばした。軽くしぶきが上がる。
「だとしても、あなたの片思いね。お互い様」
 私が思わず笑うと、彼女も笑った。空を見上げると、より冴えた月。いつのまにか数多の星々がまたたいて、空の上に優しく流れをつくっていた。こんなに良く見えるのに、こんなに美しいのに、いつでも見ることができるのに。それなのに、届かない百億の宝石。居ることさえできない、千億の景色。
 ふと横を見ると、瞬間マーニャと目が合った。が、すぐに逸らされてしまった。でも、腹は立たなかった。逆の立場なら、たぶん私もそっくり同じことをすると思ったから。
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