私は偽善者だけれど

 買い物と食事、教会での祈りを済ませて宿屋に戻ると、まだ勇者はぐったりとベッドに沈み込んでいた。夕方ここに着くやいなやベッドに倒れ込み、もう夜も深くなったというのに一度も目を覚まさなかった。しかしあの状況では仕方あるまい。あわや全滅、というところだったのだから。私が今かろうじて立って歩ける気力を保っていられるのは、あのギリギリの状況の中、最後に1本残った魔法の聖水を半ば強制的に飲ませられた所以。
「これは、お前が飲め!!」
 鬼気迫る勇者の顔を思い出す。だがこうして今、無防備に眠る彼を見下ろすと、あの時とは打って変わって非常に幼く見え、あの時の彼と同一人物かと疑うばかりだ。
「ソロ」
 むろん呼びかけても返事は無い。むしろそれで良かった。なにしろ着替えも何もせずに(さすがに天空の兜は外していたが)眠ってしまったのだから、装備も何もかも身につけたままだったのが気になっていた。少なくとも私が戻るまでには空腹で起きているだろう、そこで着替えるだろうと思っていたのだけれど。
 ベルトを緩めて、外してやる。腕を変に頭の下に敷きこんでいたので頭をずらしてやると、ピアスが指に引っかかった。引っ張ってしまったかと、一瞬どきりとした。でも勇者は何の抵抗もなく眠っている。私は注意深く彼の耳元に顔を寄せ、耳たぶをそっとつまんで静かにピアスを外し、サイドテーブルに置いた。彼の温もりが私の指先に残る。
 私はベッドの上に手をついてかがみ、その耳元にそっとキスをした。それから、ゆっくりと髪を撫でる。すこし埃っぽかった。
「おやすみなさい、ソロ」
 聞こえていなくても良く、私はそれでなんとなく満足した。もう私も眠れるかもしれない。彼に毛布をかけ直し、ランプの炎を吹き消そうとしたその時。
「……クリフト?」
「はい」
 振り返ると、彼は半分目を開けて、でも焦点が定まら無い感じで、どんよりと辺りを見回していた。
「今、何時?」
「もうそろそろ日付が変わる頃合いですが」
「まいったな。俺、そんなに眠ってたのか」
 私は絞っていたランプの光をもう少し上げた。
「あれだけ疲弊していましたから。みんなもう眠っているはずです」
「お前、ずっと起きてたの?」
「ええ。ただ、起きていたというよりも眠れなかったというほうが正しいですが」
 この街に這々の体でたどり着いた時、確かに崩折れそうになるほど疲れきってはいた。けれど、私はなぜか休めなかった。休まらなかった。あの緊張が解けなかった。口元に押し付けられた魔法の聖水の冷たさが、私を捉えて離さなかった。
「でも、ようやく横になろうと思えたわけですから、ご心配なく」
「ごめん。変な時に声かけちまったな」
「いいえ。それより、あなたは何も食べていないでしょう?」
 私は買ってきた袋を開けた。小さなワインの瓶、パンと少しの鶏肉と果物。グラスに少しだけ注ぎ、勇者の横に腰掛けた。
「起きられますか」
「なんとか、ね」
 背中の下に手を差し込んで、彼がのろのろと身体を起こすのを手伝った。肩を抱いて支え、勇者はようやく渡したグラスを持ったけれど、おぼつかないので私が上から彼の手を包み、そのままグラスを彼の口にあてがった。かすかに喉が鳴り、それからやにわにグラスを両手でつかんでごくごくと飲み干す。
「本当はブランデーのほうが良いのかもしれませんが、あなたには刺激が強いでしょうからね」
「俺を、子供扱いするなよ」
「ようやく憎まれ口が出ましたね。良かった」
 私は本心からそう言い、自分にもワインを注いだ。勇者の顔にもようやっと赤みがさし、そして急に空腹を思い出したらしく、私の買ってきたものをガツガツ食べ始めた。眠っている間は幼子のように見え、真剣な顔をする時は私よりずっと年上にも見え、そして一心不乱にパンを頬張っている今は、年齢相応の顔つきだ。でも、どれが本当の彼なのだろう。
「ありがとな、クリフト」
「どういたしまして」
 短く答え、すると今まで張り詰めていた気がすっとほぐれるようだった。ワインをもう一杯手酌で飲む。神官としてはあるまじきことだが、今日ばかりは手酷く酔っ払ってしまいたいもんだと思った。
「何笑ってんの?」
「え、私は笑ってましたか?」
 そう答えながら、不思議に笑いがこぼれるのを禁じ得なかった。勇者はきょとんと私を見て、それから同じように微笑んだ。そして今度は彼が、私の肩を深く抱いた。
「ありがとう。助かった」
「助けていただいたのは私ですよ」
 そう答えてから、私はふと疑問を口にする気になった。
「どうして私に最後の聖水を飲ませたのですか。あなたが飲んだほうが良かったのでは?」
「あの状況下なら、回復役が飲んだほうがいいだろ。それだけ」
「でも、あなただって回復系の魔法が使えるじゃありませんか」
「そんなことどうでもいい。とにかく俺は、俺以外の誰かに飲んで欲しかったんだ」
 急に声が小さくなり、私の肩にかかる手にぐっと力がこもった。そういうことか、と私は察し、彼を抱くようにしてその背中を軽く叩いた。私の肩に勇者の顎がのって、しばらく二人そうして呼吸していた。お互いの息遣いがしずかな夜に溶けて、いつの間にかランプは油が切れていて、月の光が遠慮がちにカーテンの隙間を縫って。
 老人のようなしわがれた声で、勇者がつぶやいた。
「……なあ、どうしてここまでしてくれんの」
「どうして、ですって?私をこうさせているのはあなたなんだと、いい加減気づいた方がいい」
 わずかに身じろぎをしたのは、私か勇者、どっちだったろうか。唇をふさいだのは、どちらからだったろうか。いずれにせよ大差ない。そして月の光が雲に隠れれば、誰も私たちを邪魔することもあるまいに。

粘着質な彼のセリフ [確かに恋だった] http://have-a.chew.jp/on_me/
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