隣に居てもいいだろうか

 仲間の揃った食卓はにぎやかだった。テーブルに乱雑に置かれた飲みさしのワイン、残り少なくなったディップ、くしゃっと積まれたナプキン。その上を行き来する弾んだ声、たしなめる声、こぼれる含み笑いと苦笑い。私はそのどれにも属さずに、すっかり冷めたコーヒーをちびちびと飲んでいた。
「それでね、おっかしいの。さっき聖水を買い足しにいった時にね、アリーナったら」
「もー、やめてよ、マーニャ!お願いだからっ!」
「なんですと?また姫様がなにかやらかし……」
「ちょっとブライ!やらかした、ってなによ!」
 どっと笑い声。でも、はるか遠くから聞こえるような気もする。私は皿に残ったクラッカーを一枚とり、慎重に口に運んだ。空腹なわけでも、口が寂しいわけでもなかったゆえか、全く味を感じることができなかった。マーニャが、道具屋で姫様が『やらかした』事の詳細を面白おかしく話し、ミネアがフォローになっていないフォローを入れ、顔を覆って足をバタバタする姫様、またわき起こるさまざまな笑い。それら全てが、自分から数キロ離れたところで繰り広げられているように感じて。でも、それを淋しいと思うわけでもなかった。私の胸の中に渦巻くものは、なにかもっと、自分一人の中に隠されているもののような気がする。唇に指を当てて考える。他の誰もが関係のないところで澱む、池の底の泥のような。
「大丈夫ですか、クリフトさん?少し顔色が優れないようですが」
 トルネコにいきなり名前を呼ばれて、それからテーブルの面々の目がざっと自分に集まって、私は狼狽えるのを隠すのに精一杯だった。
「いえ。そんなことは」
「でも、そう言えばさっきから一言もしゃべらないものね、クリフト」
 姫様が大きな瞳で私を見つめた。不安の色がありありと浮かんでいる。これはまずいと思い、私は無理に(むろんそれを悟られないようにではあるが)微笑んでみせた。
「ちょっと眠くなってしまっただけですので。失礼致しました。ご心配は無用です、姫様」
「クリフト殿は今日、ずっと回復魔法に徹しておられましたしな。魔法を使った事のない身としてはわからないものだが、剣を振るうのとはまた別な疲れ方をするのでしょう、アリーナ殿」
 もちろんライアンには悪気などこれっぽっちもないのであろうが、なぜかそのセリフは癇に障り、そしてそんな自分に瞬時にうんざりした。疲れているのは間違いない。問題は、『何に』疲れているかという事だった。もうこれ以上、考えたくもなくなった。
「申し訳ありませんが、私はもう休ませていただきますね。どうぞ私の事はお気になさらず、お食事の続きを」
「ほんとに大丈夫?」
「ええ。眠気には勝てませんね。では失礼」
 笑ってみせたが、当然眠いわけじゃない。マーニャがひらひらと手を振ってきたので、私は応えて柔らかく会釈し、場を壊さないように退出した。鈍く光る宿屋の廊下は、固く滑らかで歩いても音ひとつせず、ふと自分が宙に浮いている気さえした。しっかりした作りの扉、後ろ手に閉めてそのまま寄りかかる。
 と、急に涙がぼろぼろとこぼれた。
 驚かなかった。たぶん、ずっと泣きたかったのだ。とめどなく、とめどなく熱い涙が頬を転がり落ち、濡れた頬がたちまち冷たくなる。泣き止もうとは思わなかった。何が悲しいのか、何が苦しいのか、全くわからなかったけれど、ただひたすら、泣きたかった。いや、全くわからないわけじゃなく、考えの外にあるだけだった。背中で扉を温めながら、涙の流れるにまかせる。それははてしなくみじめなようで、同時にとても心地良くもあった。
 しばらくののち、ようやく私はベッドに向かい、仰向けに倒れた。暗い天井を見つめていると、自分が何者でなぜ今ここに居るかがよくわからなくなる。わかってはいるけれど、遠くから他人事のように眺めている気がする。なにもかも私からは遠く見える。どんなに近くにあるものでも、人でも、世界でも。それが嫌なわけでは決して無かった。思わずひとりごちる。
「辛いとか、悲しいとか……そんな理由だったら、こんなに泣かなくて済むんだろうな」
「でも、とても悲しそうに見えるぜ」
 飛び起きるひまもなかった。いつの間に勇者ソロが部屋に入ってきたのか、全く気がつかなかった。
「何驚いてるの?え、今のは独り言?俺に向かって言ってるのかと思ったよ」
「……気づきませんでした。いつからここに?」
「いや、なんか俺も眠くなって。てかクリフト、お前マジで具合悪そうだけど」
 みっともない。甚だしくみっともないったらありゃしない。とは言え、見られてしまってはもう何の言い訳もできないだろう。私は乱暴に袖で顔をぬぐい、ソロをねめつけた。
「まったくあなたも趣味が悪い。眠いと言って部屋に引っ込んだ人間を邪魔するとは」
「いや、だから俺に向かって言ったんだと思って。なんか、ごめん」
 ソロはしどろもどろに答えた。それで顔面を掻きむしりたくなる。ああ、これは完璧なまでの八つ当たりじゃないか。
「もういいです。すみません。たぶん私は疲れて寝ぼけていたんでしょう」
「そうだな。ここんとこ、ずっと出ずっぱりにさせてて、悪かったな」
 そうじゃない。固く目を閉じて、さらに腕で目を覆った。それに、お前がそんな申し訳なさそうな顔をする事なんて、無いじゃないか。そんな思いやりが鬱陶しい。お前が、お前の方が、世界ではずっとずっと辛いのに、どうしてそんなに。
 と、耳元でベッドがギシ、と軋んだ。
 枕元にソロが腰をかけた気配、そして軽く私の肩を叩いて。
「ほんと、ごめんな。いろいろ」
「どうしてあなたが、私に謝るのですか」
「お前に負担をかけてるのは、事実だと思うし」
 申し訳なさそうで、それでいて少し歯切れの悪い言葉に、少し苛ついた。
「私一人が負担を受けているわけじゃなし。私とて、私がしなければならない役目は理解して」
「いや、そうじゃなくて」
 せっかく顔を隠していたのに、彼は私の腕を取ってそっとどかしたので、見下ろす彼の目をまともに見るはめになった。おそらく私の目は真っ赤に腫れているのだろうが、私はもう何もかもがどうでも良くなって、動くのを止めただ視線を合わせた。少し見つめあっていると、消えそうなランプの光に反射する彼の目が、ほんとうにきれいな緑色である事をいまさらながらに気づいた。とても、とても綺麗だった。見ていたら、急に涙がひとすじこぼれた。
「えっ、クリフト?」
 ソロは思い切りうろたえていたが、私が一番自分自身にびっくりしていた。跳ね起きて、袖で顔をがしがしぬぐう。心臓が早鐘のように打っていた。なんなんだ。いったいこれは、なんなのだ?
「なんかごめん。ほんとごめん。お前は疲れてるのに、俺が」
「いいえ。謝らないで下さい」
 指でこめかみを押さえながら、思い切り深く息をした。
「謝らないで下さい。私をこれ以上泣かせたいんですか」
「どうであっても、とことんつきあうから。俺が隣にいてもいいなら」
 思わず顔が歪む。両手で覆い隠し、顔を背けた。しかしソロはそれを許してはくれなかった。やや強引に肩を掴み、私を無理やり向き直らせた。そのままガッと抱き寄せて、さっきより強く背中を叩く。本当に心配してるようなそぶり、こういうのって、どうなんだ。私は動く気にもなれなくて、されるがままに彼の肩に顔を押し付けていた。
「嫌だろうけど、もう一度言わせてくれ。……ごめん」
 なぜ謝る!と怒鳴りたい気持ちより、もういいや、という感情が勝った。そして涙があふれ出た。見る見るうちにソロの肩口が濡れていき、たぶん肌にまで達しただろう、私が号泣している事もとっくにばれているだろう。もういいや、こんなにみっともない姿をさらしていても、この絶望はこれ以上軽くも重くもならない。ソロの手のひらは、いつの間にか叩くのをやめてゆっくり背中をさすってくれていた。そして遠慮がちに、でも力強く抱きしめてきて。
「俺はお前が好きなんだよ」
「それは、なんとも滑稽ですね」
 毒づいた。でも、これ以上何も言えなかった。かわりに、より強く抱き返す。涙も止められないままに、やるせない思いをぶつけるように。心に急に流れ込んでくる温かいかたまり、少し戸惑った。けれど、もういい。なにがどうであっても、もういい。そう、もしかしたら、こんなふうに孤独や絶望のすべてを諦めれば、なにかが変わるのかも知れなかった。たとえば、世界が全て自分から遠いのなら、自分に近いところに世界を創ればいいのかもしれない……とか。
「……あなたには、敵いませんね」
「あ、今笑った?」
「ええ、少し。不本意ですが」
 ソロの肩口に、軽く一度噛み付いてみる。彼の身体が少し震えた。


「孤独な君へ5のお題」 リライト  http://lonelylion.nobody.jp/
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