心に小さなともしびを

 最初の頃は、まったく気づかなかった。そしてしばらくして、少しの違和感を覚えた。ただしそこからは、それがなんなのか、どういった事なのかを気づくまでには大して時間はかからなかった。
 それからというもの、注意深くあなたを観察していたのだ。いつの間にかあなたを見る事そのものが目的になっているのに気がついた時、私はさして驚きもしなかった。ああ、そういうことか、と妙に納得したのを覚えている。
 世界を救うべく運命付けられた勇者は、一日の終わり、ベッドに身を投げ出してぼんやりと虚空を見つめている。いつもこうだ。話しかけても何かをしても身動きもしない、それどころか十数分は何の反応もない。いつものことだ。
 今日もそんな時間が過ぎ、彼はようやく身じろぎをした。私はグラスに葡萄酒をほんの少し入れて、彼の枕元に置いた。勇者は目だけ動かして私を見上げ、かすかに眉を寄せた。
「なんでそんなことをするわけ?」
「一日の終わりには、これが一番でしょうから」
 私は自分のためにもグラスを作り、軽く掲げた。
「今日も一日お疲れさま、ってことで」
 勇者はのろのろと起き上がり、グラスを手に包んで赤い液体を見つめた。ランプの炎がちらちらと反射し、グラスの縁はときどき黄金色に輝いた。伏し目がちな目がふと動いて、私の目を捉える。ためらうように何度か唇が動き、彼はようやく一言つぶやいた。
「クリフト。いつか、いつか聞こうと思ってたんだが」
「なんでしょう?」
「……やっぱいいや」
 彼は一息に中身を飲み干し、どすんとベッドに横になった。私は少しく当惑し、その背中をただ見守った。しばらくの息が詰まるような静寂、かすかに窓の外に鳴る木々の梢のこすれる音。
「で、聞かないんだ」
 沈黙が破れるまで、長い長い時間が経ったような気がした。私は平静を装って聞き返した。
「なにをですか?」
「俺が、言いかけたこと」
「聞いてほしいのなら聞きましょう。話したくなったのなら、いつでも私はあなたの話を聞きますし」
「そういう聖職者めいた言葉は嫌いだね」
「そもそも、私は聖職者ですが?」
「嘘付け。俺がそんな意味で言ってるんじゃないってことは、とっくにわかっているんだろ」
 ちょっとだけどきりとした。ほんとうに、ほんのちょっとだけ。
「どうでしょうか」
「はぐらかすなよ」
「私にもいまだ答えが見えているわけではありませんから」
 口を滑らせた。やってしまった。勇者が気がつかないといいのだが。そうは思ったものの、その願いはかなわないようだった。今や、勇者は私を目を凝らすように見つめている。私は彼の注意を逸らすために、わざとにっこりと微笑んだ。
「それで。私に聞きたい事とは何ですか?」
「……ほら、また逸らされた」
「逸らしたのはあなたの方じゃないですか」
「そうだったっけ。まあいいや」
 急に体制を変えて、勇者は元通り乱暴に横になった。いきなり拒絶されたように感じて、私はひどく動揺する。何に動揺したかって、そんなふうに感じた自分自身にだ。
 「いいや、って。良くないですよ」
 ああ、なんて間抜けなセリフだ。胸を掻きむしりたくなった私に気づかず、勇者は天井を見上げたまま、やっと唇を動かした。
「聞きたかったんだ。なんで、お前は前へ出ない?いつも後ろで守るだけだ。いや、それが悪いって言っているんじゃない。なんて言うか……時々、感じるんだ。お前、時々前で思いきり斬りまくりたい衝動を……抑えてないか?」
「衝動?訳が分かりません。だいたいパーティーとしては、サポートに徹するのが私の能力的にも」
「いや、パーティーとしては、たしかにお前の行動は正しいよ。けれど、俺がこう感じたのは間違ってないと思うんだけど」
 私は肩をすくめて首を振った。やれやれ、というように見えれば良かった。そう見えなくてはならなかった。
「あなたこそ、時々……というよりいつも、でしょうか。ものすごく物怖じして見えますよ。私も間違ってはいないかと思いますが」
 勇者はとても驚いた顔をした。それは私の正しさを如実にしめしていた。私が最初から感じていた違和感。そう、彼には『世界を救うべく運命付けられた勇者』としての顔が、あまりにも板についていなかった。たぶん、私以外の者もうすぼんやりとは気づいているのかも知れない。それではあまりにも哀れなので、この場では口にすべきではないけれど。
「怖いんじゃない」
 とても小さな言葉が勇者からこぼれた。私はそれを両手で掬い上げた。
「知っていますよ」
 私は勇者のベッドの傍らに腰掛け、緑の髪に指を這わせた。彼は上目遣いに私を見上げ、ふいに親指で私の胸をぐっと突いた。心臓の位置。
「ここ。暴力衝動があるだろ、燃えるような」
「あると認めてしまえば、今あなたの上にそれをぶちまける事になりますが。よろしいですか」
 私は肯定も否定もしないかわりにこう答えたが、勇者はひるまなかった。
「俺は構わないぜ」
「私が怖くないんですか?」
「率直に言うと、最初は怖かった。今は、怖くない」
 その澄んだ目がとても美しかった。私は顔を寄せて、彼の唇を吸い取った。肩を思い切り押さえつけると、勇者の身体がびくっと震える。一瞬、思い切り殴ってやりたくなる。が、思った時の倍の早さで急激に興が削がれた。
 こんなことをしても手に入らないのに。こんなことをしたって、明日が変わるわけでもないのに。こんなことをしたって、彼の傷も私の傷もより深くなるだけなのに。
 突如身体を離して苦笑いを浮かべた私に、勇者は不審そうな目線を向けた。
「……何だよ」
「別に。急にむなしくなっただけです」
「俺は、構わないって言ってんのに」
 今度こそその目を直視できなかった。この、彼の優しい眼と海のごとく深い心に、頭まで浸かって溺れてしまいたくなる。そんな思いを抱くのはこれで何度めだろうか、そしてこれほどまでに強く思った事などあっただろうか。私は両手で顔を覆った。ははっ、と苦しい笑い声が喉から漏れた。私はただ、かなしかったのだ。何がどう悲しいのか具体的には言いたくもないが、このどうにもできないやり切れなさ。それを消化できないでいる歯がゆさが、じわじわと自分自身を蝕んでいる事は、もう認めなければならないらしい。
 と、ふいに勇者が私の肩にそっと手をのせた。
「ま、でも、すぐに答えなんか出さなくていいよな」
 自分自身に言い聞かせるようにうなずきながら、勇者は軽く微笑んでみせた。
「たぶん、お互い様だと思うし」
「そうでしょうか」
「たぶん、って言っただろ?」
 今度は、彼が私の唇をふさぐ番だった。私は目を閉じて自分の身体の動くにまかせた。彼の体温は、私の心を落ち着かせるには充分だったらしい。両腕でしっかり彼を抱きとめる。これは溺れているのではない、足を浸しているだけだ。知らない間に潮が満ちて私が溺れてしまっても、それはそれで一興だろう。胸の中に抱え込んでいたいろいろのものが、するすると音もなくはがれ落ちていくようだった。今は、今は忘れよう。自分が不幸だった事も、それをずっと知らないでいた事も。
「確かに、私にはさっきあなたの言ったたぐいの衝動があるのでしょう」
 勇者の耳元に、私は告白した。
「けれど、無理にそれを表に出す必要もない。同じようにあなたも、無理に隠す事はありません。それこそお互い様なのかもしれませんね」
 腕の中で、勇者が少し笑うのがわかった。私もなんとなく顔がほころんで、なお優しく彼を抱いた。日に焼けた首筋に唇を寄せて深く息を吸う。ほんの一歩、あなたの方に踏み出しただけで、こんなに世界が変わって見えるなんて。ランプの炎が燃え尽きる、微かな音がしたと同時に、私の胸にはほんのりと灯がともった。せめて今夜くらいはゆっくり眠ろう……せめて、今夜くらいは。

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