不機嫌な青い薔薇

 濡れた髪を拭きながら宿屋の部屋へ戻ると、何かふわっと、薔薇に似た甘いような不思議な香りがした。そろそろ眠る時間ではあるけれど、まだクリフトはソファに身をもたせて古めの本を読んでいた。少し斜めに肘をつき、ガウンの襟がやや緩んで、ふだんは見えない鎖骨がくっきりして、それだけで何ともだらしなく見える。俺が部屋に入っても一度も目もくれず、ページをめくっては、サイドテーブルに置いたカップを口に運んでいる。締まりのない様子でいて、その動きだけはいつも通りいやに優雅だった。
「何読んでんの」
 答えは返ってこないだろうなと思いながら聞く。クリフトはちらりと一瞥しただけで、また目線を本に戻した。あーはいはい、邪魔するなってことですか。俺はどしんとベッドに腰を下ろして、わしゃわしゃと頭を拭いた。
 クリフトは時々、こんなふうに豹変する。いつもは穏やかな笑みを絶やさず、誰にでもフレンドリーで、いかにも聖職者という雰囲気を身にまとわせている。それがどうだ、今夜のクリフトはまたも、偏屈で不機嫌で近寄りがたいバージョンか。
 最近こんなクリフトは見なかったのに、どうしたのかな。
「クリフト?」
 やっぱり、むかつきよりも心配が先に立った。初めてこのクリフトにあったときはえらい面食らったもんだが、俺にも多分わかってきたと思う。こんなときのクリフトには、構って構って構い倒して、さんざウザがられて爆発させてやれば良いんだと。わざと大げさにクリフトに近づき、至近距離で覗き込む。
「紅茶飲んでんのか。俺にもくれよ」
 クリフトは心底嫌そうな顔をして、ポットからカップに注ぎ、それを自分でぐいと飲み干した。思わず吹き出しそうになるのをぐっとこらえる、が、隠しきれなかったみたいだ。と、ものすごい低音が絞り出された。
「……今夜は静かに過ごしたいんで、構わないでください」
「俺には『構ってくれ』というように見えるけどね?」
「一度その両目をえぐり出して、リバーサイドの流れで洗ってくると良いですよ」
 その職業にしては物騒な言葉を吐き捨て、またカップに紅茶を注いだ。口に運ぶ直前に、クリフトの手を掴んで奪った。カップに口をつけ(あ、さっきの甘い匂いはこれだったのか)、今度は俺が一気に飲み……咳き込んだ!
「ぶ、ぶはっ!なん、なんだこれ!紅茶じゃないじゃんか!」
「紅茶です。吐き出すなんてもったいない、口に入れた分は責任持って飲み下しなさい」
「これ、これって紅茶味の“何か”だろ……」
 クリフトは大げさにため息をついて、するりとカップを奪い返した。
「紅茶ですったら。まああなたには多少早いでしょうがね」
 また継ぎ足すのにポットを持ち上げる。と、俺はあるものに気がついた。
「そこ、ポットの影の瓶、一体何なんだよ。ってこれ、ブランデーじゃねーか!」
「紅茶の香り付けには珍しくないものですよ?」
「香り付けってレベルじゃないだろ!どれだけ入れたんだお前」
 毒づきながらも喉がじんじんしている。顔がカーッと熱くなっている。なのに、なんでお前そんな平気な顔してんの?クリフトの色白の顔には赤みもさしていない。夜からずっとシカトされて、そんな涼しい顔をされて、それに思いっきり子供扱いしやがって、俺の方が先に爆発してしまった。
「お前が時々陥ってる、その態度。めっちゃウザいんだけど!」
「これはこれは。『ウザい』とは良くない言葉遣いですね。改めなさい」
「改めるなら、まず、お前の、その態度が先だ……ろ」
 急に喉の熱さがぶり返してきた。が、クリフトは御構い無しだ。
「私は言いました、構わないでくださいと。こういうときには放っておいてほしいもんです。それをあなたときたら空気も読まずに絡んできて。一体どっちが悪いんですか、そんなに構ってほしいんですか。そうだ、それならもう一杯いかがです?どうやら弱そうですし、あなた相手になら物理的なラリホーも効きそうですね」
 なにを言うんだよ。と思う間もなく、クリフトはすらりと身を起こした。読みさしの本をベッドへ放り投げ、やおら瓶を手に取り直接あおり、俺の顎をがっと掴んで仰向かせる。見開いた青い目が視界いっぱいになったかと思うと、唇でこじ開けられた。息ができなくて、思わずごくりと喉が鳴り、灼けつくような熱いものが胃の底まで落ちていく。押しのけようとする、でも手に力が入らない、それどころかクリフトの片腕にがっつり回り込まれ、なおも注ぎ込まれる液体は、一部が漏れて俺の口から頬を伝い、首筋まで容赦なくこぼれた。全身に血が駆け巡り、訳が分からないほど火照り、それはこの紅茶もどきのせいなのかクリフト自身のせいなのか。俺はへたり込んだ。
「だから、私にちょっかいをかけるなと再三警告したのに」
 わかってなかった。俺は全然、わかってなかった。
「おや、腰が砕けましたか?全く救いようのない」
 軽い悪態をつきながら、クリフトはやすやすと俺を抱き上げて、ベッドにゆったり横たえた。柔らかい布で汚れた襟元と頬を優しく拭き、見下ろすその顔は、いつも見る柔和なほほえみに戻っていて。
 いや、戻ったんじゃない。また仮面をかぶっただけだ。
「おやすみなさい、勇者さん。一度眠って次に目覚めたら、どれもこれも夢だったで片付くんですから」
 そう言って俺の髪にキスして、一度ゆるりと撫でてから、反対のベッドに放り投げた本を拾いに行った。元どおりソファに腰掛け、続きを読み始める。それを横目に見ながら俺は、妙な興奮、それとはうらはらに急激に下がるまぶたと熾烈に戦った。どれもこれも夢だった?ふざけんじゃねえ。唇がまだ燃えるように熱いんだ。こんなんでごまかされてたまるかよ!……とは、明日になったらもっと言えなくなるんだろう。俺は、とうとう陥落して目をつぶらざるを得なかった。
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