一夜の幻

 気がつくと、いつも視界の端にあなたが入っていることに気がついたのは、いつからだろうか。いや、とっくにわかっていたのに、必死で知らんふりをしていたわけだ。ため息をつく。もう、認めざるを得ないのだろう。我を忘れるほどに、どうしようもなく、あなたに惹かれてしまっていた。
 目を上げると、遠い後ろ姿、流れるような紫の髪がまず目にしみて。誰と話しているのか、時折笑うような動作でその光が揺れる。見え隠れする身体のライン、こんなにも綺麗で眩しい。今まで数多の男たちがこんな彼女に魅了されてきたのだろう。そう思うと、訳もなく腹立たしくて、悲しかった。けれど過去のことなんか、私にはもうどうしようもないのだ。
 胸に手を当てる。そうか、『恋に胸がきりきり痛む』というのはこういうことだったのか。こんなふうに彼女は、私の知らなかったいろいろなことを、知らずに私に教えてくれる。ありがたいような、はた迷惑なような!こんな思いを知らなければ良かったのか、と自問してみる。でも、あれこれと考えても、その問いは結局否定せざるを得ないという結論に落ち着く。まったく、たいした魔法使いだ。人の心まで燃え上がらせる、その魔力。もうこれ以上見ないようにしなくては。これ以上深みにはまる前に(ああ、でもとことん深くまで溺れてもみたい)、自制ということを思い出さなくては。
 目を逸らす、寸前。
 ふと、彼女がこちらを振り返った。
 遠く離れた場所なのに、ぴたりと視線がかち合った。
 心臓が跳ね上がる。顔が一気に熱くなる。が、彼女はまるで何事も無かったかのように、また誰だかおしゃべりの相手に向き直って、二度と振り返らなかった。私は胸を掻きむしられるように辛くなって、誰がみていた訳でもないのに、急いでいるふりをしてその場から立ち去った。

 その夜、私はどうにも眠れなくて、宿屋を抜け出した。人影もまばらな、夜の町。酒でも呑みたい気分だったが、うるさいだろうと思うと酒場に行くのは憚られた。教会なら必ず開いているだろうが、こんな中途半端な私を、今夜神様はお許しにならないだろうと思った。当てもなく歩く、ふと興が乗って町を一歩出てみた。見上げれば月夜、うつくしい月夜。心地良い夜風、すずやかな空気。
「どこに行くの?」
 仰天して、私はすかさず振り向いた。驚いたのは急に声をかけられたからか、それともその声そのものにか。まごうことなき紫の対の目が、私をまっすぐ撃ち抜いていた。
「どこって……特に。散歩のようなものです」
「町の外に出るのは、行き過ぎじゃない?」
「そうですか。それは軽率でした」
 目を逸らす。これ以上、あなたを見てはいられない。
「ところで、マーニャさんは、どうしてここに?」
「聞くのは野暮というものよ」
「そうですか」
 平静を装って肩をすくめる。夜風が急に冷たく感じられた。
「私はそろそろ戻ります。あなたもお気をつけて」
「なら、私も一緒に帰ろっかな」
 ふわりと身を翻して、彼女は私の隣に追いついた。動揺を隠して歩きながら、全身を研ぎすます、全てを感じ取ろうと半身が全て感覚器となる。空気を通して伝わらない彼女の体温、呼吸、揺れる髪の一本一本にまで。情けなさをごまかそうと、意味もなく咳払いをして。
「どうしたの」
「……どうもこうも。あなた、いささか酒臭いのではありませんか」
「あはは。ばれたか」
 あなたはとん、とステップを踏み、片足を軸にくるりと回った。
「酒場を出たらね。見覚えのある後ろ姿が目に入ったの。どこへ行くかと思ったよ」
「そうですか」
「さっきから『そうですか』しか言わないのねぇ」
 くすくす笑う。
「あ、とがめてる訳じゃないのよ。でも、面白いわね」
「なにがですか?」
 つい、きつい口調で言ってしまって、しまったと思った。でも彼女はそんなこと意にも介さないようで、にこっと私に微笑みかけた。
「ここんとこね。気がつくと、なんかクリフトが目に入ってるんだなあ」
「えっ?」
「あと、最近良く目が合うよね。私の気のせいかな?気のせいか」
 形の良い唇から、こらえきれない笑いをあふれさせて。
「まあ、鬱陶しいかも知れないけど。強力な魔法の使い手同士、仲良くやりましょ」
「……そうですか」
「迷惑そうね?」
 彼女が立ち止まり、私を下から覗き込んだ。からかうような、いたずらっぽい、そして得も言われぬ極上のまなざし。
「そうでもないですよ」
「そうですか。ふふ」
 急に腕を絡めてきたので、びっくりして身を引こうとするも、強い力で引き戻される。
「こらー、逃げるな」
「逃げますよ!この酔っぱらいが!」
「あ、本性を現したな。それでいいのよー、堅苦しいのは苦手なの」
 けらけら笑って、頭を私の肩にもたせかけた。こうなると嬉しいよりも迷惑が勝つ。むりやり自分の腕を引っこ抜いて、乱れた袖を伸ばして直した。
「いい加減にして下さいっ。導かれし者としてその振る舞いはどうなんですか!ありあまる魔法の才能が泣きますよ!」
「いいじゃなーい。あなただってぇ、毎日……私を、魔法にかけてるくせに。まったく、たいした、魔法使い、よね、え……」
「はい?なんて言いました、今?」
「……んー」
 がくっと彼女の身体が崩れ落ちる。焦って抱き上げると、あろうことかグースカ眠っていた。

 ……ったく、ふざけんなよ、もう!!

 他にどうしようもなく、彼女を担ぎ上げた。ぐっすり寝ている人間とはかくも重いものか!まったく、たいした魔法使いはどっちだって言うんだ。どうせ今夜のことだって、明日になればきれいさっぱり忘れちゃっているに違いない。『あれ、昨日私、どうやって帰ったっけ?』そんなセリフを一度ならず聞いたことがある。天は二物を与えず、だ。どうしようもなく悔しい、が、やっぱり忘れてもいてほしい。そうだ、『こんな夢を見た』……それくらいで覚えている程度がいいな。これは私にとっても、一夜の幻。そう思った瞬間、訳もなく笑いがこぼれてきた。私は一人大爆笑しながら、ほうほうのていで宿屋へ急いだ。

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