あいしてる、あいしてた

 これ以上、何を話すことがあるというのだろう。私たちは残りわずかな夜を少し持て余していた。マーニャも、なんと言葉を切り出そうかというようにワイングラスを指に絡ませている。私もずっと黙ったまま、タンブラーの中の氷がただ溶けていくに任せていた。さっきからもう目も合わせていない。合わせられないのだ。酒場の喧噪は相変わらずだったが、酔いつぶれる客が増えてきたのか、あからさまな大声は聞こえなくなっていた。いや、ただ単に私たちの耳にはそうした雑音が漉されているだけなのかも知れなかった。
 そろそろ宿屋に戻った方がいい。明日は今まででいちばん大切な、そして最後の日になるだろうから。お互いに、どちらがそれを言い出すのか探りあっていた。たぶん私が切り出すべき言葉なのだろうと思ったが、私はこの時間を打ち切ってしまうのが単純にどうしても惜しかった。この時が永遠に続けばいいとは思わない、それは私たちが導かれし者である以上、至極当たり前のことだった。それでも私が口火を切れないのをマーニャも察知していて、しかし私を諌めてその先を言わせようともできないでいるのだった。
 こう、お互いがお互いに考えていることがすっかりわかりきっていて、なおかつぐずぐずしているのはなんと滑稽なことか。二人ともいい大人なのに。いくら時の砂をひっくり返したとて、これからしなければならないことが変わるわけでもない。氷が溶けて、カランと音を立てて崩れた。タンブラーの底の水溜り。天井の明かりを映して、金色に輝いた。こんな風景ももう見納めだろうと思うことにする。
 ふうう、とため息をついたらマーニャと同時だった。びっくりして思わず顔を見合わせてしまった。どうしよう、どうしようかと狼狽えていると、マーニャは恥ずかしそうにくすりと笑った。
「ねえ、私、さっきから考えているんだけどね」
「なにをですか」
 緊張を気取られないように、いやもうこの際気取られたって同じことだと思いながら返事をすると、マーニャは意外なことを言い出した。
「愛してるって、素敵な言葉よね。だって、どんな言葉もこの言葉には代えられないのだもの」
「それは、どんな言葉だって代わりがあるわけはないでしょうに。代わりのきく人間がいないのと同じことです」
 そんな当たり障りの無いことを返しつつも、私は悲しかった。なぜだかとても悲しかったのだ。これが最後の会話のような気がするせいか、それとも全く別の何かなのか。マーニャは私の胸中を知ってか知らずか、穏やかな顔で微笑んで続けた。
「私ね、これでもあなたのこととっても愛してるのよ」
「出会って何年も経っているわけでもないのに?いったいあなたに私の何がわかるというんですか」
 半分は本心だった。出会って長年の時が経ったというわけでもないのに、いったい私にあなたの何がわかるというんだ。なのに何故、私はあなたを?私はあなたと出会ってからこのかた、何度も何度も考えたけどまだ答えを見いだせていないんだ。
「聞き方を変えましょう。何故、そんなふうに断言できるのですか?」
「じゃあ、どれだけ一緒にいたら愛してるって言ってもいいの?」
 言葉に詰まった。私はそんな問題の答を知らなかった。彼女は畳み掛けるように言葉を連ねた。
「どれだけ知れば、あなたのことが『わかった』って私にわかるの?わかっていなければ愛してるって言っちゃいけない?」
「あなたの問いかけは、混ぜっ返しているようにしか思えませんが」
「私がそんな回りくどいことするわけないでしょ。あなたじゃあるまいし。ていうか、答えから逃げないで。私の気をそらすための、意味のない質問で返さないで」
 そんなつもりはない!と否定する前に気がついた。私はまっすぐマーニャを見つめた。世界の終わりに、最後まで正直にあるために。
「私は結局私自身にそこまで自信がない。ご気分を害したのなら、謝ります」
 ここで止めても良かったが、自然と言葉が口からあふれでた。
「私も、あなたのことをとても愛しているんです。たぶんご存知だったと思いますが」
「あら、クリフトだって知っていたでしょう?」
 マーニャはとても嬉しそうに笑って、私の頬に軽くキスした。じんわりと喜びが胸を満たしていって、ワイングラスからあなたの手を奪い取り、両手で包んだ。たちまち世界から音が消えた。明日死んでしまっても、充分生きた証があったと思った。これでいい。なにも思い残すことは無い。指先からお互いの心が溶け合って、同じ思いに落ち着くひとときだった。
「そろそろ宿屋に戻った方がいい。明日は今まででいちばん大切な、そして最後の日になるでしょうから」
「そうね」
 支払いを済ませて、酒場を出た。結局飲み物にはあまり口をつけなかったなと思った。マーニャが軽く私に腕を絡めて、妙に明るい調子で言った。
「私は最後の日なんて思わないわ。私たちは世界を救ってみせるんだから」
「それでもたぶん、あなたとこうして過ごせるのは最後の日のように思います」
 私の言葉の意味が分かったのか、マーニャは一瞬押し黙った。
「たしかに私たち、住む世界が違うものね。あなたはお城の中、私は繁華街の劇場。相反するとも言い切れないけど、重なりあいもしない」
 声のトーンが急に変わった。低く、そして優しいほど柔らかく。
「だからすべてが終わったら、私たちたぶんもう会わなくなるよね。お互いに、やらなければならないことが多すぎるもの。また会おうね、って約束しても、だんだんとその間隔が開いていって。『遠くなればうすくなる』とは良く言ったもんね。確かに、そうやって今までも何人もの友だちと離れてきたわ。今ではどこに居るのかわからない子もいる」
 このひとは見かけよりずっと聡明なひとだ。最初はそれがわからなかったものだった。その時の心持ちを思うと苦笑いしか出て来ない。それらのことも何もかも懐かしかった。そしていつか、こんなふうにあなたと話したことを懐かしく思い出すのだろう。
「クリフト、あなたのこともいつか思い出になってしまうかも知れない。でも私、それでもあなたのことを本気で愛してるのよ、今」
「ええ」
 何とも言えない、温かく、甘苦い気持ちがこみ上げてきて、私は立ち止まってマーニャを見つめた。あなたは何もかもわかってここにいてくれている。私には、その事実ひとつだけがあればいい。それだけで、この先何分でも、何時間でも、何日でも、何年でも生きていける。
「私もです。あなたのことをどれだけ知っていても知らなくても、今この世界でいちばんあなたを愛しています」
「ありがとう」
 私たちは少しの間、抱き合った。続いても、続かなくても、続けられなくても。今この一瞬の前には、なにもかもが許されるだろう。たとえこれきりになっても、その時は、ただ泣いてしまえばいい。涙は雨のようにお互いの心に降って、隙間を優しく潤してくれるだろう。私たちにはこれ以上、望むべくもない。なぜならそれが、私たちがともに選んだ道だから。ともに歩んでいく道だから。
「……そろそろ、帰りましょうか」
 あえて『帰る』と言ってみた。あなたには解るだろうと思ったから。
「そうだね。帰ろっか」
 マーニャは私が見たかったそのままの微笑みを浮かべて、そっと私の手を握った。歩きながら空を見上げたけれど、星はひとつも見えなかった。けれどこんなこともそんなことも、いつかは私の胸の中で光り輝く時が来る。私は遠い未来に思いを馳せた。その時にあなたが私の横にいても、いなくても。今、この一瞬さえ現実のことなのだから。

唐突な別れに贈る7つのお題「あいしてる、あいしてた」 TV http://lyricalsilent.ame-zaiku.com/
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