ほしいものは

 さっきから何度も、店のドアに付いたベルが鳴るたびに振り返っている。その度に、ああクリフトじゃなかったってがっかりするけれど、実はまだ顔を合わせる心の準備ができてなくてちょっとホッとしたりもする。そんなこんなでまたベルが鳴って、振り返るのが怖い、でもやっぱり横目で追ってしまって。そして、心臓が跳ね上がった。でも、それはひた隠しに隠さなければならない。
「お待たせしてしまいましたね」
「別に。この間は私が待たせたし」
 なんでもないように答えたけれど、心は弾んで。クリフトはさらりと隣のスツールに座り、簡単に注文を済ませ、私に微笑みかける。
「というか、久しぶりですよね。会おう会おうと言っておきながら」
「仕方ないわよ。お互い予定が合わないんだから」
 なんでもないようにグラスを飲み干し、お代わりを頼んで。でも鼓動はもっとずっと弾んで。
「聞くまでもないかもしれないけど。仕事、忙しい?」
「最近いろいろと増えまして」
 クリフトの頼んだものと私のお代わりが同時に運ばれて、私たちはグラスを合わせた。
「再会を祝して」
「そうね」
 あなたが隣にいるだけで、こんなに味が違うなんて。
「エンドール公演は大成功だったそうですね。おめでとうございます」
「見に……は、来れなかったみたいね」
「行きたかったのですが。どうにも抜けられなくて」
「また、チケット送るわ」
 クリフトの頬を指で突っつく。
「そんな申し訳なさそうな顔をしなくていいのよ」
「見に行くと言いつつ、反故にしてばかりで」
「それはお互い様でしょ。この前、2時間も待ってくれたのにごめんね」
 顔を見合わせて、同時に苦笑い。と、クリフトの顔がふいに柔らかく変わった。
「……やっと、会えましたね」
 手が伸びて、私の手を包んだ。温かさに泣きそう。
「ずっと、こうしたかった」
「私もよ」
 熱くなる指先、このまま溶けて混じり合って固まって仕舞えばいいのに。酒場の喧騒がふと遠のいて、目を閉じればあなたと私二人だけが世界に残された。ずっと会いたかった。こんな風に二人で過ごしたかった。
「今まで細切れにしか時間が取れませんでしたが」
 クリフトの指が、私の手の甲を繰り返しやわらかく掻いた。
「今日は……少しでも長くあなたと居たい」
「私も。ねえ、さっきから私が言いたかった言葉全て、奪わないで。何も言えなくなっちゃったじゃない」
 潤んだ目と目で見つめあう。あの旅が終わった後、世界は平和になった、そして私たちの接点は無くなった。気球に乗るあなたを見送る前に、また近いうちに会おうね、きっとだよと約束をして、そしてその約束は長いこと守られなかった。仕方がないよと思った、だってあまりにも距離も立場も違いすぎる。けれど、そんなふうに自分にうそぶきながらも、会いたくて会いたくて、たまらなかったの。
「言わずにはおれません。ずっとずっとあなたのことを考えてた。あの約束を嘘にしてしまいたくはなかった」
「ほら、またそうやって……私が言おうと思ってたこと、全部盗っちゃうのね」
 ふとあなたの指が伸びて、私の目元をぬぐった。濡れていたのに初めて気づいた。何か言おうとして、でも、もう言葉が出てこない。あなたが先回りして何もかも言ってしまったからか、それとももう心に身体が追いつかないくらい、心があふれ出しているからか。
 あなたが好き。
 こんなふうな時がずっと欲しかった。
 あなただけを欲しかった。私だけのものになるあなたを欲しかった。
「ねえ……私、本当にあなたが好きなのよ」
「どうしてですか。こんなつまらない男なのに」
「それは」
 言葉に詰まる。いろんなものが心の中に渦巻いて、私はただあなたを見つめた。つまらないわけないじゃない、こんなに私の心をとらえて離さないあなたが!なぜとかどうしてとかそんな単純な言葉でなんて言い表せない。ただ私はずっとあなたのそばにいたい、誰よりも何よりも。距離ではそれが叶わない、それならばあなたの心の一番近くにいたい。こんな穏やかな時間をくれるあなたの心に、いつも私を置いて欲しい。
「あなたのそばにいると、安心するの」
 しわがれたような声しか出てこなかった。でも、それでも伝えたいことが。
「そうやって真正面から私を見つけてくれたあなたが、欲しいと思ったから」
 本当なら今すぐ、人目もはばからず抱きつきたかった。でもクリフトは、そんな羽目を外すような行動を好まないだろう。代わりに、もっと強く手を握りしめた。温かく固く握り返してくるのが嬉しくて、泣き笑いであなたを見つめる。木漏れ日が溢れるようなまぶしそうなあなたの眼差しが、優しく私を抱きしめてくれる。それは本当の腕のようで、私はその指が背中を撫でるのを感じるようにさえ思えた。
「クリフトは何が欲しいの?あなたは、私に何が欲しい?」
 甘さに酔っ払って、そんな言葉が口をついた。でも、クリフトは急に目を逸らし、唇に指を当てて俯いてしまう。私と同じように言葉にできなくて詰まってしまったのか、それとも。こんな質問をしたことへの後悔がどっと私を襲う。あなたといるだけでいい、なぜとかどうしてとかそんな理由なんて要らなかったのだ。ここでこうして、隣にいてくれるだけでいい。それ以上は望まない、けれど、なんて私は欲深なの。
「答えなくていいよ。変なこと聞いてごめんね」
 思いを押し隠して私は微笑んだ。クリフトも曖昧な笑みを返し、私を握った手をほんの少し緩めた。後ろのテーブルで、楽しそうな派手な笑い声が上がる。盛り上がる人々の騒ぎに、私の心はしゅるしゅると吸い込まれてしまう。
 でも、この手のぬくもりだけは本当のこと。そうだと信じたい。

 どれくらい長い時間が経ったのか、それとも大して無かったのかわからないけれど、気づくとバーの客は大分減っていた。所在なさげにグラスを磨くマスター、テーブルを片付けるバニーガール。それらはなぜかとても遠くにあるように見えて。
「そろそろ出ましょうか」
 聞きたくない一言だった。一瞬で胸が押しつぶされる。立ち上がったクリフトはいかにも上品な仕草で私の手を取り、スツールから降りるよう促した。物腰柔らかく店の扉を開けて私を先に通す、すると冷たい空気がひゅっと身体も心も冷やして泣きたくなる。でも悟られたくなくて、私はあかるく笑って見せた。
「引き止めてごめん、遅くなっちゃったね。明日が大変でしょ」
 もっと気の利いたことは言えないの?胸の中で地団駄を踏んだ、でも思いがけない言葉が返ってきた。
「いくら遅くなっても大丈夫ですよ」
「どうして?」
「お休みをいただいてきましたのでサントハイムには明朝帰ります。既にこの街の宿屋に部屋を取ってありますから」
 クリフトは私の方を見ずに一息に言った。急に、水に沈められたように息が苦しくなった。なぜかはわからない、いいえ、わかっている。私はたまらず、小走りでクリフトの前に回り込み、見上げた。すると闇の中の湖みたいに濃く深く、視線が絡み合う。思わずクリフトの腕を掴むと、やんわりと跳ね除けられ、私の肩を大きく抱きそうになって、なのに寸前でゆるりと引っ込められた。でもその拳は、関節が白く浮くくらいに固く握り締められて。
 何か言おう、言わなくちゃ。と思う間もなく、クリフトは俯いて私を押しのけるように前へ歩いた。着いていくために、少し小走りしなければならなかった。と、クリフトはやおら立ち止まった。
「先ほど、私が何を欲しいかをお尋ねになりましたよね」
 未だ私の方を見ずに、掠れた声で囁いた。
「答えるつもりはありませんでした。でも、やはり望まずにはいられない」
 私は彼の腕に手をかけ、絡ませた。クリフトは顔を伏せたまま、今度はゆっくりと手を重ねてくれた。
「聞かせて。クリフト」
「マーニャ。……今宵、私は、あなたが欲しいと願ってもいいですか」
 冷たい空気が瞬時に沸騰して、全身がじんと熱くなった。身体の奥底から、強い甘い衝動がとめどなく私を呼び続けている。答えるまでもなくあなたに抱きついて、ただ何度も頷いて、そしてあなたの震える腕が私をぎりぎりと抱きとめて。
 そして今宵、私はあなたのものに。

乞う、十題 [リライト] http://lonelylion.nobody.jp/
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