ずっと、待ってた。

 山の端が光り始め、もうすぐ日も昇ろう。窓を開けると息が白くなった。日を重ねるごとに少しずつ、少しずつ寒くなる朝。振り返れば、あなたはまだベッドの中で眠っていて、赤い髪が羽根布団のふちから少しはみ出して垂れている。白いシーツの上にそれは、鮮やかに映えて、そしてとても静かだった。窓を閉めると、ガラスはほんのりと曇った。
 おはようございます、と声をかけようかどうか少し迷う。とても……とても、罪なような気がしたのだ。
(おはようございます)
 口だけを動かして私はガウンを羽織り、あなたを起こさないようにそっと廊下へ出た。早朝も早朝、まだ誰もいない。誰かに見つからないように自分の部屋に戻るのはたやすかった。良くも悪くも開けっぴろげなサントハイムの場内で、もしかしたら私がコソコソする必要もないのかも知れなかったが、でも、それでも、やっぱり。
 ただ、たぶんもう陛下はとっくにお気づきなのだろうなと思う。いや、もしかすると陛下だけでなく?
 私はそんな考えを頭から振り払い、早すぎる朝に自分の身支度をした。こんな罪の意識を心にほんのり保ったまま、教会へ向かうのはいつも心を重苦しくさせる。たぶん私はそのことに慣れ始めているのだと思い、少しぞっとした。これに慣れきってしまったら、私は聖職者としては間違った道に堕ちてしまうだろう。
 そうなる前に、……そうなる前に、なにができる?

「クリフト。今日は何にも言わないで行っちゃうなんて」
「申し訳ございません。でも、姫様があんまりよくお眠りだったものですから」
 朝の謁見が始まる前。玉座の間に姫様をお連れしながら、私たちは顔を寄せてこっそりささやきあう。
「でも、もうだめよ。すごく寂しかったんだから。いい、私が眠っていてもこれからはちゃんと声をかけるのよ?」
「御意。しかし寝ぼけられて、声をかけてもかけなかったと私を責められる可能性もありますゆえ」
「ひどい!……うーん、でも、無くは無い、かも?」
 ひっそり笑い合い、ついでに小さな口づけを。
「行ってらっしゃいませ、姫様」
「ええ。クリフト、後でまたね」
 扉の向こうに姫様が消え、私はなんと無く肩を落とした。
 時々自分がふたりに分かれている気がする。姫様と一緒だと何もかも忘れてこんなに楽しいのに、一人になると途端にいろいろのことに押しつぶされそうで。こんなになるなら、一生片思いの方がまだよかった。ただ憧れ、慕い続けているだけでよかった。
 いや、違う。頭を振る。そんな考えはあまりにも、姫様に対して失礼だ。私がこんなことをちらと考えたとでも姫様が知ったら、きっと姫様は悲しまれるだろう。昨夜私の胸に、とろけそうな微笑みをのせた姫様は、おそらく待っていらっしゃる。私が、姫様の望む一言を、はっきりと口にする日を待っていらっしゃるのだ。

 待っている。

 途端に私は、すべて何もかもがくっきり明確になった気がして、めまいがした。動悸がした。自分の肩に急に重圧を感じ、よろけた。もしかすると、もしかすると、いや、間違いなく!私を待っているのは姫様ただお一人ではないのかもしれない、姫様への、私のたった一言を!
 罪の意識が当たり前になってしまう前に、なにができる?今朝の自分への問いが頭の中にこだまする。でも失敗したら?拒絶されたら?反対されたら?誰も私を受け入れなかったら?けれど気づいてしまったら、私が取れるのはたった一つの行動だけだ。当たって砕けろというじゃないか。どうせなら砕けてしまってもいいじゃないか。姫様にも自分にも、世界すべてに不誠実であり続けるよりは。
 衝動が弾けた。すべてを理解した今、いてもたってもいられなかった。
「姫様!」
 引き返しかけた扉に駆け戻り、ばんと扉を開けた。姫様と陛下が、驚いた顔で私を見ている。謁見から退出するのであろう数人の人々も、あっけにとられた顔で振り返った。近衛、メイド、とにかくそこにあるすべての目が、ざっと私に集まり少し気圧される。
 でも、ここで引き下がる訳にはいかない!
「陛下。姫様。ご無礼を申し訳ございません。こんな形で失礼も甚だしく、大変恐縮ではございますが、今私にも一度の謁見の機会をいただけませんでしょうか。罰があるようなら後で、喜んで受けさせていただきます。どうか御慈悲を」
 一気にしゃべった。喉がカラカラする。でもそんなことは瑣末な問題だ。
「クリフト、そなたにしては珍しいな。罰があるはずも無い、何かあるならここで述べよ」
「ありがとうございます、陛下」
 私は震える足を抑えながら進み出て、お二人の前に膝をついた。身体中のありとあらゆるところから汗と、それから何か得体の知れないものが滲んでくるのがどうしようもなかった。でも私はキッと目を上げて、姫様を見据えた。
「私は、かねてより申し上げたい、お伝えしたいことがございました」
 声がかすれる。でも、振り絞る。
「私は臣下の身なれど、どうしてもこの気持ちを抑えることができません。陛下、姫様……私は姫様を心から愛しています。どうか私に、私と姫様に、結婚のお許しを戴きたくお願い申し上げます」
 部屋中がどよめいた。私は気にせずに続けた。
「無論私では頼りなく思われたり、姫様の婿としては不適切と思われるかもしれません。その場合は、どうぞ不埒な私を場内から追放なさってください。でも、願わくば」
 言葉を繋げようとした、でも言葉にならなかった。
 なぜならば、姫様が私の首っ玉に飛びついてきたから!
「クリフト、クリフト……!私、私、ずっと待ってたんだから!待ちすぎて待ちすぎて、私……!」
 姫様が激しく泣き出し、私はただあなたを抱きしめることしかできなかった。赤い髪に顔をうずめながら、いつのまにか私の目からも涙がこぼれだし、それで私は気が付きもしなかった。
 城内の割れんばかりの拍手が、私たち二人を包んでいることに。
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