世界はその色一色に染まる

 急に抱きつかれて心臓が止まるかと思った。
 背中に直に感じるあなたの熱い息づかい。やわらかな唇の感触。汗で濡れた肌に貼り付く、あなたの長い髪。私の胸の前に組まれたあなたの小さな手が、一息に私の世界をぐるりとかき回して。
「姫様、なにをなさいますか!お止めください!」
 悲鳴のように叫ぶ私の口を、後ろから手のひらでぐっとふさがれた。
「大きな声を出さないで。私がここに居るってばれちゃうじゃない」
「だからといって、こんなときに入り込まなくても!」
 姫様を振りほどく、はずが、こんな時の姫様に力で敵うはずもなく。暗がりに空気が震える。私の身体が、心が震える。汗がつたう。掛けておいた服の束が床に滑り落ち、水たまりにみるみる濡れる。カーテンの隙間がゆらり揺れて、姫様のシルエットを内側に隠す。シャワーは相変わらずざあざあ頭上に降り注いでいて、姫様のささやき声を覆い隠した。
「こうでもしないと、あなたをつかまえられないから」
 温かく柔らかいあなたが、私の背を付かず離れずぎりぎりに擦れた。あなたの髪もいつかぐっしょりと濡れて私の腰にまとわりつく。口も聞けず、息もつけず。私たちの身体を流れていく熱い湯、私の胸の前に組まれた腕に幾筋もの流れを作る。ぼたぼたと絶え間なく落ちる水の固まり、タイルの上にいくつもの輪を作り、目の端に濡れた服の緑がやけに鮮やかに映える。
「こうでもしないと、あなた逃げてしまうでしょ?クリフト」
 そうかもしれない。けれども、それは逃げではない。私自身をあなたから遠ざけておくための、あなたを私自身からお守りするためのひとつの手段。
「私は、それが嫌なの。それをわかってもらうには、こうするしかないの」
 あなたが私のことをすべて見透かしているのは、わかっていました。だからこそ私は、あえてかさぶたを剥がさないようにしてきたというのに!いきなり神経が昂り、私は今度こそあなたを力の限り振りほどこうとした。が、あなたの方が一瞬早く手を緩め、くるりと身を翻して私に正面から抱きついた。胸に直に感じる、あなたの体温。突起に馴染もうとする、あなたの柔らかさ。頭の中が見る見るうちに真っ白になる。ざあざあと絶え間ないノズル、ノイズ。シャワーヘッドの穴のひとつひとつが、妙にくっきりと見えるような錯覚。か細い、でもはっきりとした声がその雑音をくっきりと割る。
「お願い、クリフト。私を見て」
「姫様」
 恐る恐る目を下ろすと、ああ、これほど姫様の目が大きく見開かれているのを私はついぞ目にしたことも無い!しばし見つめあうと、私は知らずにあなたの頬を両手で包み、近く寄せていた。そのまま唇を重ねると、身体中が熱湯よりも熱くなった。かき抱くと、重くなった髪が腕全体に絡み付いた。これ以上、何をどう、止めようと、言うのだ!どうなったってかまわない、嫌でも何でもそう思い込まなければならないのだ。見つかったら?言い訳はできない。隠し通せたら?もうこの道は戻れない。認められたら?怖じ気づくことは許されない。どのみちお先真っ暗だ。それでも、それでも、私は溺れずにはいられない。
「姫様。本当によろしいのですか」
「私、何もかもわかってここに来たの。見くびらないで」
「確かにその通りですね。申し訳ありませんでした、姫様」
 この中で窒息できるのなら、死を待つ方が幸せだ。私は姫様をもう一度きつく抱きしめた。

侵食十題[リライト] http://lonelylion.nobody.jp/
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