9月の海

「海に連れて行って」
 姫様は、そう仰ったのだ。
「花もプレゼントも何もいらない。私を海に連れて行って」
 それは随分と前の、姫様の誕生日パーティのことだった。姫様はたくさんの贈り物……色とりどりの花や宝石などを横目で見ながら、私にそう言ってくださったのだった。

 そして今、目の前にはどこまでも白い砂が広がっていた。くすぐったい砂の感触に、最初はサンダルでそろりそろり歩いていた姫様だったが、じきに脱ぎ捨てて飛ぶように駆け出していく。私は笑ってサンダルを拾い、こんなもので砂上を歩くのは確かに姫様にとってはまどろっこしいことだろうな、と思った。
 私がいつもよりゆっくり歩き、やっと波打ち際まで来ると、太陽と海を背にした姫様は、いつもより一際ひかりかがやいていた。
「やっと来たのね。待っちゃったわ」
「私をお待ちいただき、ありがとうございます」
 姫様の目が、ふと柔らかくなった。
「ここまで待ったわ。何ヶ月も何ヶ月も」
「お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした」
 私は心からそう言って、跪いて姫様の手を取った。濡れた砂が膝にざらついたが、なぜか気にならなかった。波はすぐ近くなのに遠くにあるように聞こえ、そして上げ潮がすうっと滑り、私たちの足をざぶんと濡らした。
「いいのよ。待ち望んだ日がやっと来て、とても嬉しいわ」
 今すぐ抱きしめてしまいたく思ったが、私はどうにかこらえて目を伏せた。どこまでも続く、白い白い波打ち際とエメラルドのみどり。盛夏の時ならここも人で溢れるのだろうが、今は気温も落ちて9月。私たち以外に、海には誰もいなかった。
「見て。貝が流れてきたわ」
 姫様が拾い上げたそれは、姫様の頬のように穏やかな桃色。それはどんな花よりもあなたに似合い、どんな宝石よりも美しかった。たまらず立ち上がると、姫様が抱きついてきた。私よりも、速く。
「いつまでこうしていられるのかな。私たち」
「……いつまでだって、こうしていられますよ」
 それが嘘であると、お互いにわかっていた。でも今は、ただただ熱い息づかいと鼓動を、互いに感じ合う一時だけ。私たちの耳に、遠くから近くから海潮の響きが押し寄せてくる。その静かな轟音の中に、私たちはしばらく我を忘れたままで。
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