願いが叶えられるまで

 赤銅色の綺麗な髪をくるくると指に巻き付けながら、姫様は隣で唇を尖らせた。
「どうしてもできないことってあるよね」
「姫様にできないことなど、世界中にひとつもありはしませんでしょうに」
「そうでもないわよ」
 揺れる御者台で足をぶらぶらさせながら、姫様はつまらなそうに首をふる。
「たとえば、そんなふうに言われたくないのにみんなそう言うこと、とか」
「誰だって、姫様をご覧になればそのように申し上げたくなりますよ」
 姫様がキッとこちらを向いたようだったが、折悪しく悪い道に差し掛かり、手綱に気を取られてその顔を見ることができなかった。
「見ただけで何がわかるって言うの?」
「今日、何かお気に触ることでもありましたか。やけに気が立っておられるご様子ですが」
「……んー」
 下を向いて黙り込んでしまわれた模様。恐れ多いことを申し上げてしまったか、とほぞを噛む一方、いつもと違うご様子が気にかかった。しばらくの無言、姫様は動かなかったし、パトリシアがいくら賢い馬とは言え、あまりに道が悪すぎて私も悪戦苦闘していた。二室にいるものは仮眠を取っているようだったし、馬車の両脇を歩く仲間は警戒に神経を張りつめさせているようで、居心地の悪い静かさだった。
 ようやく石ころの多い道を抜け、思わずふうとため息をついたのを姫様は聞き逃さなかったようだ。
「クリフト、ごめんね」
「なんのことでしょうか?」
「私、クリフトに八つ当たりしてた。変に絡んでごめんなさい」
 姫様の手が温かく私の腕にかかり、私は微笑んだ。
「何にも気にしていませんよ。それに、人としてたまには心弱くなることもございましょう」
「クリフトにも、そんな時があるの?」
「ええ、……たまには」
 ええ、しょっちゅうです。こんな言葉を飲み込んだ。どうしてもできないことがこの世の中には多すぎる。
 それがやらなければならないこととして、目の前にそびえる壁になっていても。
 それがどうしても実現できないこととして、心の中に突き立つ壁になっていても。
「私はね。ここのところ、しょっちゅうあるわ」
「どういうことですか?」
 出し抜けに姫様が仰ったことで、私はひどく動揺した。
「確かに私も思っていたわ、私にできないことなんて何一つないだろうって。でも、そうでもないことに気づいちゃったのよね」
「例えば、どんなことでそんなふうに思われるのでしょうか?」
 当惑して聞き返すと、姫様は上目遣いに私を見た。
「こんな時に、何も言えなくなっちゃうことよ」
「仰る意味が良く分かりませんが」
「そうよね。わかんないよね。伝えられないんだもの」
 私は心配になり、姫様の顔を覗き込んだ。
「なにか、何かお困りのことがありましたら、いつでもお申し付けください。私は誠心誠意」
「そうじゃなくって!」
 途端に姫様は顔を伏せ、口ごもった。
「ごめん。大声出して」
「いいえ、こんなことなでもありません。私にできることならいつでも」
「クリフトは、私がお願いしたら何でもしてくれるの?」
 姫様はうつむいたまま、小さくそう仰った。
「もちろんです。あなたの望むことで、私の力が及ぶことならば何なりと」
「いいわ。言うわ」
 姫様は私の腕をぐっと掴み、燃えるような紅い瞳を私に突き刺した。私の耳元に口を寄せ、叫ぶように囁いた。
「キスして。今ここで」
「な、なんと仰いましたか?」
「できることなら何でもしてくれるのよね。キスして」
 背中が一瞬で滝のように汗ばむのがわかった。回りの仲間に聞かれないように必死に、悲鳴のように囁き返す。
「そんな、そんなこと今ここでなんて……できるわけがございません!」
「ふうん。やっぱり」
 不意に姫様が腕をゆるめ、ご自分の胸の前に腕組みをされた。足を乱暴にバタバタさせ、ぷいと向こうを向いてしまわれる。
「ね、だから言ったでしょ。どうしても自分の思い通りにはならないの。どうしてもできないことがあるのよ。自分ではどうにもならないわ。やっと伝えたって、これじゃあね」
「姫様……」
「ごめんね、当て付けがましいこと言って。気にしなくていいのよ。わかってたから」
「それは、その、申し訳ないとは思いますが。いくらなんでも、今ここで、なんてできる訳がございません!」
「今じゃなければ?後なら?」
 さすがに言葉に詰まったが、私はすぐに自分を取り戻した。
「私は、姫様の、臣下でありますゆえ」
「そう来ると思った。そうよね。そういう真面目なところが、好きだけど嫌いだわ」
「姫様!私は」
 姫様は片手をひらりと振った。
「いいの。もういいの。でも覚えておいて。それで、あなたがその気になったら、私にキスしにきてね。待ってるから」
「姫様。私は」
「いつまでも、待ってるから」
 何か言おうとした、次の瞬間。目の前に魔物が現れた。
 姫様はぱっと御者台から飛び降り、私も反射的に剣を抜く。
 どうしてもできないことは、いつも目の前に立ちはだかる。どうしても実現できないこととして、心の中に突き立つ壁になっていても。やらなければならないこととして、目の前にそびえる壁になっていても。今とりあえず私たちがしなければならないことは、やらなければならない壁を突き崩し、切り抜けること。『世界を救う』そんな大義名分に、自分の命を賭けること。
 そんなことを一瞬で巡らせ、私は思いを自分の奥深くに押し戻した。
 今できることは、この剣をふるうこと一択として。自分へのごまかし?いや、それでも、その先は後でも考えられる。私は剣を振りかぶり、力任せに振り下ろす、姫様の下さった猶予までの時間を、できる限り短くするために。
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