おいしい話の落とし穴

 優しい、やわらかな胸に抱き寄せられて。
「クリフトは、ばかね」
 ゆるりと私の髪の間を流れていく、たおやかな指。
「私はそんな事、気にしないのよ?」
 気にする人はいくらでもいる。その一人がすでに私、心の中だけでそうつぶやく。それでも私は目を閉じて温かさに顔をうずめた。楽な方へ、楽な方へと流れていきたがる愚かな私を、神よ、どうかお許しください。そう思った瞬間、気づく。“神”という言葉を、今どれだけ薄っぺらい言い訳に貶めているかを。
 こんな私が、導かれた者であるはずがない。あなたの蜜に溺れる資格もない。いや、そうすると私をこんなに酔わせてしまうあなたこそが、やはり罪なのか?
「ねえ、私を見て」
 とろけそうな声に、目を上げないようにするのは至難の業だった。と、あなたは指を顎にかけ、私をついと上向かせた。あなたの燃えるような紅い目が、私まで燃やそうと大きく見開いて。
「眠らないで。私を見て」
 耐えきれず、あなたにすがりついて唇を吸った。深く深く応える甘い短い息づかいに、私はすべての苦悩を脇へ押しやった。どうでもいい、もう神もなにもかもどうでもいい、とは思わない。私は導かれた者で、私たちは導かれた者で、世界をあるべき正しい姿に巻き戻す者。私たちは正義であり善であり、私たちは、私たちは、私たちは、こうして言い訳を重ねていくだけ!どうでもいいなんて思わない、そんなこと微塵も思っていない!そう必死に思い込まなくてはならないのだ、いくら今の私たちが毒の沼に身も心も嵌っていようとも!
「私たち、ずっとこうしていられるわね」
 否定などあり得ない、疑ってもいない。あなたはそうして私の逃げ道を、知らずに封じてしまうのだ。いや、私は、あなたから逃げたがってなどいない。私は何を考えているんだ。私はあなたのお側から離れたりしない、どんな事があっても、たとえ世界が滅びようとも。そう思ってさらにどきりとする。この浅薄な表現は何だ!こんな中身のない、ただ飾り立てただけの言葉!
「ねえ、今夜はこのままここで眠って。約束よ……?」
 うなずく事はできた。それであなたは満足したのか、もう一度私の頭を抱き寄せる。私は自分の中に生まれた恐れに密かにおののきながら、見えないように唇を噛んだ。このままではいけない、それはわかっている。けれど私は本当にそう思っているのか?ただ自分をごまかすため、ポーズだけのためにそう感じている『つもり』になってはいないか?
 あなたの腕の中に甘える事を、自分だけのために許した日から……おいしい話に脇目も振らず、思慮もせずに飛びついた代償を背負ったのだ。それはあまりにも重かった。自分自身を失うほどのあなたへの心酔、それがこんなにも心地良く、そしてこんなにも自分自身をあざむくことになろうとは。そしてそれを正当化するために、自分に美辞麗句をごてごてに貼付ける事への違和感、そしてそれを止められないほどがんじがらめに縛り付けられた自分。縛り付けているのはあなたなのか、それとも私……?
「姫様」
 思いも寄らないほどしわがれたその声に自分で驚きながらも、私はそしらぬふりで言葉をつないだ。
「姫様、今夜だけでなく、私の身も心もいつまでもここに、あなたのおそばに。心から愛しています……私の、私だけの姫様」
 するとあなたは一瞬、なぜか淋しげに微笑んだ。やわらかな胸に再度私を抱き寄せて、それであなたの御顔をそれ以上見る事はかなわなかったのだけれど、たぶん私が見てはいけないものだったのだろうと思う。あなたの心の中にも闇がある事を知った。聡明なあなたはやはり気がついているのであろう。だとすると、……
 私はそこで考える事をやめた。これ以上は、姫様に失礼をはたらく事になる。この落とし穴にいつまではまっていられるかはわからない。でも、落ちていられる間は堕ちていよう。お互いの背中に、お互いの腕を回しあいながら。


少女5題「おいしい話の落とし穴」
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