Beaujolais nouveau

 暖炉にはもうかすかな熾火がくすぶるまでとなっていたが、宿屋の食堂にはまだその暖かさが残っていた。夜も更け、先ほどまでここで談笑していた仲間たちは一人減り二人減り……私も一度は部屋へ戻ったが、皆が寝静まったのを見計らいそっと戻ってきた。そしてここにいるのは、今たった私一人だけ。
 カーテンの隙間からにじむわずかな月明かりを頼りに、ろうそくに火を灯す。井戸水に漬けておいたボトルは程よく冷えていて、私は慎重にコルクを抜き、最初の一杯をグラスに注ぐ。すると花のような香りがほのかに立ち、私は目を閉じてしばしそれを楽しんだ。
 不意に違和感を感じて、目を開ける。
「何をしている?」
 気配もなく、いきなりのように魔族の王がそこに立っていた。一人の時間を邪魔された苛立ちと、なぜ気づかなかったのだろうという当惑の間で、私はおもわず素直に返事をしてしまった。
「ワインを楽しもうというところです。あなたこそここで何を?」
「誰がこっそり抜け出したのだろうと思って来てみれば、クリフト、お前だったとは。意外だな」
「意外、ですか?」
 私は不意に可笑しくなってしまい、少し笑った。
「一人のお楽しみですが、バレてしまっては仕方がない。あなたもどうです」
 私は自分のために注いだグラスを、すっとピサロの方へ押しやった。ピサロは眉を寄せて考えるような様子をしてから、おもむろにスツールに座った。
「あなたもワインがお好きで?」
 彼が乗ってきたことにはかなり驚いたが、私は気を取り直しもう一杯グラスに注いだ。今度は正真正銘自分のための一杯だ。向いではなくわざと隣に座り、軽くグラスを掲げて。
「乾杯。と言うよりも、À vôtre santé!ですね」
「……À la vôtre」
 グラスをかかげる振りをしただけだったのに、それこそ意外にもピサロも上げ、グラス同士がキスして軽い音を立てた。私たちは黙って赤い酒を口に含む。途端に鼻に抜ける華やかな芳香、舌を直撃するような酸味の後に、軽い甘苦い渋みが足跡を残す。少しだけ目を閉じて今年初めての余韻を楽しみ、ゆっくりと目を開けると、ピサロは面食らったような顔で顎に手を添えていた。
「どうしましたか?」
「なんだこれは。すごい酸味だ。それにあまりにも甘すぎやしないか」
 私はおもわず笑ってしまった。そのリアクションにも、このシチュエーションの奇妙さにも。
「これは出来たばかりの新酒ですから、当然でしょう。殊に今年は甘い仕上がりといいますし。この際白状しますが、さっきキメラの翼でこっそりエンドールの市場に行って、樽から瓶詰めしたばかりのものを買ってきました」
「キメラの翼?ああ、お前はルーラを使えないのだったか。面倒なことよ」
「しかしルーラを使える人に頼むほうが、後々面倒なことになりますでしょう?」
「それもそうだな」
 ピサロが唇の端で少し笑ったのを私は見逃さなかった。ピサロのグラスが空いたので、追加で少し足してやる。さっきは静寂をぶち壊されてむかついたが、何となくこっちの方が楽しいように思えてきた。もう一杯自分に注いで、それから一緒に買っておいたチーズを切り、手近な皿に盛った。そしてワインを口に含んでは喉に通す、でもなぜかさっきよりもずっと甘く感じる。
「一人で呑もうと思いましたが、あなたと呑むのもこれはこれで一興ですね」
「お前、今まで見たことのない顔をしているな」
「そうでしょうか」
 私は努めて平静に彼の眼差しを受け止めた。ピサロの目の色が目の前の赤いワインと重なって、青白い顔を縁取る銀の髪とあいまって綺麗な絵のように見える。しばらく見つめ合い、そして、お互いに先に視線を逸らしたら負けだと思っている。それがわかったから私は、つと手を伸ばし、銀色を指先に巻きつけた。
「あなたも、私が今まで見たことのない顔をしていますよ」
「そうだろうか?」
 すべてを束ねる魔族の王が、本当に困った顔をしているのを見て、なぜだかとても可愛らしいと思ったのだった。なんだろう、これは。自分の中に湧き上がるある種の衝動に、少なからず私も戸惑った。が、私はもうどうでも良くなっていた。私一人の時間に無断で侵入してきたのは、お前だ。報いは受けてもらいましょう。
 私はそのまま顔を近づけた。唇で、唇に触れる。彼はかすかに身じろぎをしたが、抵抗もしなかった。そして唇が離れた後、眼線を外してうつむく。
 勝った、と思った。
「……これはこれで一興、というわけか」
「そうかもしれませんね」
 私がボトルを取り、自分のグラスに注ごうとすると、ピサロがそれを押しとどめた。
「私が注ごう」
「それはどうも」
 ボトルから溢れる小さな囁き、細かい泡が立って、ここが世界の頂点のような気がする。後にも先にも、魔族の王に酌をしてもらった者は私一人だろう。微笑みを禁じ得ず、私はさっきよりずっと多くのお前の髪を、緩やかに手に巻いた。するともう一度、今度はお互いに顔が近づき、さっきよりも深いキスをしていた。冷たく温かく、新酒のように軽く甘く。唇が離れた後も、ワインの余韻のようにその存在が唇に残った。それは私を愉しませ、どうしようもない酔いにうっとりしながら、そんな気分もなぜか悔しいようで、だからさっき切ったチーズをつまんでピサロの唇に押しつけた。
「今晩私はかなり酔っているようですので、多少のことは大目にみてくださいね」
「嘘をつけ。たった3杯でか?」
「ええ、まあ、嘘ですけど。そういうことにしておいていただければ」
 こらえきれず、でも大声で笑うわけにもいかず、どうにも口を覆うしかない。ピサロはチーズを頬張りながら、可笑しそうな、それとも照れたような、見たことのない不思議な笑みを浮かべていた。少し、悲しいような思いにとらわれる。それはこいつには知られたくないと思いつつ、口から勝手にこぼれ出てしまった。
「あなたとこうして呑むなんて、これが最初で最後でしょうね」
「なに、来年の今頃にはすべてが片付いているだろう。来年の新酒が入ったら、それを持ってデスパレスまで来るがよい」
 だから、悲しい気持ちなんて霧のように吹き飛んで。
「そう来ましたか。私を呼びつけるなんていい度胸ですね。今度はあなたがエンドールで買出しして、サントハイムまで迎えに来なさい」
「私にそんな口を聞いたのは、お前が初めてだぞ」
「ええ、私が最初で私が最後でしょうね。さ、わかったら、グラスが空いてるのをなんとかしてください」
 グラスを押して滑らすと、ピサロはどうしてか心底たのしそうに微笑み、素直にもう一杯を足してくれた。私はそれを同意と取り、そして思った。これでもう一つ、明日を生き抜くための理由ができたな、と。
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