どうにもキスは苦手

 ほんっと、つくづく見ているとなんて端正な顔をしているんだって思う。かっこいいとかクールだとか、そういう普通にあるような言葉ではあらわせない。冷たいようにも見えて優しげにも見えて、世慣れているようでも世間知らずなようでもあり、なにもかも突き抜けたふうなのに全くの無垢にも見える。
 この顔が崩れることがあるのかしら。できるものならやってみたい。ぐちゃぐちゃに壊してみたい、それだけの価値がありそうななさそうな。見ようによっちゃどんなふうにも見える、底の知れない男。
「さっきからどうして私をそんなにじろじろ見てるんですか、マーニャさん?」
「あなたが本当はどんな男なのかしら、と思ってね」
「訳が分かりませんね。本当も何も、私はサントハイムの神官で姫様の従者以外の何者でもありませんよ」
 眉をひそめてため息をつき、ゆっくり足を組み替える。そんなあなたの動作ひとつひとつをとっても、芝居がかったように見えるのは気のせいじゃないと思いたい。この男は何か隠してる、誰にも見られないような奥深いところに、絶対に、なにかを。百戦錬磨の私を、なめんじゃないわよ。
「じゃあひとつ聞いていい?」
「なんなりと」
「キスしたことある?」
 クリフトは目を丸くして首を傾げた。
「いえ、しかし、なぜそんなことを?」
「なら、いただき」
 私はテーブル越しにクリフトの襟元をつかんで強引に引き寄せ、薄い唇を吸った。服に薫きしめられたお香がふわっと鼻をくすぐって、このまま離すのが急に惜しくなる。舌であなたの唇をすうっと撫でて、でもこれ以上は歯止めが利かなくなりそう!名残惜しくも手を離すと、クリフトは呆気にとられた様子で自分の唇を押さえた。
「ごちそうさま、クリフト」
「……いったい、なんなんですか」
「奪っちゃったのに、驚かないの?あわてないの?つまんない人ね」
「いえ、驚いてはいますけどね。どうもこういうのは苦手で」
 クリフトは本当に困惑した顔で、少し考えるようにして眉を寄せた。なんなの、この反応は。あんまり予想外で私も困ってしまった。からかおうと思ったのは失敗だったかしら。もしかして、可哀想なことをしちゃったのかも。
 なんて、ちょっと後悔したのも束の間。クリフトは急に顔を上げ、私の瞳を覗き込んだ。
「しかし、奪われっぱなしもしゃくですね。返してもらいましょう」
 え?と思う間もなく、クリフトは実に優雅に私の前に回り込み、私のあごに優しく手を添えて、そっと唇を寄せた。柔らかいものが一瞬触れて、離れる。まるで花びらがひとひら降ってきたよう……思わず、両手で頬をおおう。なんなの、これ。なんて優しくて静かなの。私が今まで知っていたキスとは何もかも違って、まるで、これって。…
「なんで、あなたがこんなに驚くんですか?」
 クリフトは今度こそ本当に驚いた顔で、目をぱちぱちさせた。
「だって、クリフト、……」
 言葉が続かない。何か言おうと、思っても、なんにも浮かんできやしない。急激に喉が渇く。病気のような動悸。どうしよう、今これ、私天国見ちゃったかも。とにかく何か言わなくちゃ、そんなふうな焦りでなぜかいっぱいになる。なんでもいい、なにか。
「キスしたこと、ないなんて。嘘でしょ?」
「嘘だと言っても、本当だと言っても、あなたは信じないのではありませんか」
 それは確かにその通りで、私はとうとう顔を上げられなくなってしまった。なにを動揺しまくっているのか、自分でも訳が分からない。ただ私は、無性に自分が恥ずかしかった。何が恥ずかしいって、何もかもが全部恥ずかしくてならなかった。
「……ごめん、クリフト」
「なにがですか」
「変な悪戯して、本当にごめんね。私が悪かったよ」
 意外にもクリフトは首を振って、柔らかく微笑んだ。
「私は怒っていませんよ。ちょっとびっくりしましたけども」
 たぶん私のほうがびっくりしてると思うけど。こういう感じのことについては私は慣れきってると思っていたけど、それがこんなひとに木っ端微塵に崩されて。いたたまれないような、困ったような、悔しいような、苦いような、恥ずかしいような、嬉しいような、愛しいような、……惚れてしまいそうな。
「私こそごめんなさい。これほどあなたを困らせてしまうなら、あなたに差し上げたままでも良かったかな」
「いや、もう、それ以上言わなくていいから!」
 私はあわてて叫んだ。これ以上撃ち抜かれちゃ、たまらない。
「今度は、そのー、今度がもしあるとすればの話だけど。あ、無くても構わないんだけど。うん、でも、あったほうがいいなぁとは思うけど。とにかくね、えっと、もういきなり奪ったりしないから。ちゃんと正々堂々と……なんていうか、そうね、あーもう!なんて言ったらいいかわかんないんだけど!要するに、その……」
「無理に言葉にしなくても大丈夫ですよ」
 私の肩に大きな手が乗って、その重さが心地良かった。ためらいがちな声が上から降ってきて、それがなぜかとても嬉しくて。
「なんというか、とても恥ずかしいのですが。私も、たぶん、あなたと同じことを考えた気がします。ええ、……同じであるといいのですけれど」
「ありがとう。どうしよう、私、恥ずかしくて顔が上げられないよ」
 こんなことを男性に言うなんて、初めてじゃなかろうか。百戦錬磨は返上ね。
「私もです。だからそのままうつむいていて下さると嬉しいのですが」
「でも、いつまでもこうしてもいられないよね。ほんとどうしよう」
 なんとなく二人で笑い出して、そしてなんとなく目が合った。けど、なんか二人ですぐに視線を逸らしてしまって、でもその一瞬にもあなたの頬が真っ赤なのが見て取れた。キスってこんなにやばかったのか。鞘当てとか駆け引きよりも、もっとずっと、どうにもこうにも。あさっての方を見ながら軽く指で探ると、同じように探していたらしい長い指が絡んで、瞬く間に外れた。ああもうほんとうにどうしよう。たぶんこれからしばらくは、どうにもキスが苦手になりそう。

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